ログイン* * *「よくぞ無事に戻った、ルファル、リゼル。そして……リリシア」――夜。神聖な会議室の上座から全てを見透かすような、涼やかで気品に満ちた声が降ってくる。清廉な空気が満ちる会議室の床に、リリシアはルファル達の後ろで跪き、深く頭を垂れていた。久方ぶりにお目にかかるシャイン皇帝の、どこか浮世離れした美しさと圧倒的な威厳。リリシアは思わず、そのお姿に一瞬だけ目を奪われてしまう。自分のような身分の者が、こうして直にお声を掛けられていること自体、未だに夢のようだった。――汽車が帝都の駅へ到着したのは、ほんの少し前のことだ。一刻も早く今回の任務を報告する為、邸宅に戻って旅の疲れを癒やす間もなく、馬車に揺られて急ぎ宮殿へと向かった。されど幸運にも宮殿入りした際に公務を終えて側近と共に廊下を歩まれていたシャイン皇帝と会う事が出来、こうして緊迫した空気の中、緊急の神魔会議が開かれる運びとなったのである。会議室の中央に据えられた円卓の席には、シャイン皇帝を取り囲むようにして、エルシー、アルベルト、ハノ、テオが高貴な背もたれの高い椅子に深く腰掛け、静かにこちらを見守っている。「シャイン皇帝、まずは土産を渡させて頂きたく」静寂を破り、ルファルが隣に用意していた丁寧に包装された菓子の箱を厳かな手つきで差し出した。「うむ」シャイン皇帝は小さく頷き、ルファルから手渡されたその箱を受け取る。その直後、円卓の一席から華やいだ声が上がった。「きゃっ、それって、もしかしてもしかして、あの街の名物の『海の花、バハル』!?」はしゃぐエルシーをテオが酷く不快そうな、突き放すような冷徹な視線で一蹴する。「エルシー、うるさいです」エルシーの肩に乗っかった精霊もまた、注意する。すると淡々と、しかしどこか浮き世離れした調子でリゼルが続けて言葉を添える。「エルシー、静かにしなよ。君の声のせいで話が聞こえない。シャイン皇帝の邪魔でしょ。……全員の分、ちゃんとあるんだからさ」あの感情の起伏が薄く他人に興味を示さないリゼルが、全員の為に土産を選んで買ってきたという、天と地がひっくり返ったかのような事実に、エルシーのみならず、その場にいた一同が驚きに目を見張った。シャイン皇帝はふっと細められた美しい目で箱を見つめ、箱をそっと傍らに置く。「……ほう、名物とな。心遣い、感謝する。
* * *宿屋から街へ、馬車で揺られて。「ここが、土産物屋だ」そう言って、ルファルがやがて足を止めたのは、街の一角にある洗練された店の前だった。駅からも程近く、潮の香りが微かに残る風が通り抜けていく。(なんて、お洒落な店……)あまりの美しさに、リリシアは圧倒され、立ち尽くした。自分のような者が足を踏み入れていい場所なのだろうか。そんな卑屈な思考が頭を掠めるが、隣に立つルファルの存在がそれを押し留める。「魔術師達が、よく立ち寄る店でもある」説明を受け、ルファルの促されるままに店内へ一歩足を踏み入れると、品のいい女性の店主がにこやかに出迎えた。「これはこれは、ルファル様ではないですか。ようこそお越し下さいました。あら……」店主の視線が、ルファルの整えられた髪に留まる。「本日は随分と雰囲気が違いますこと。もしや、隣にいらっしゃる噂の花嫁候補様の影響かしら?」「……余計なことを言うな」ルファルの冷たい一喝をよそに、リリシアは棚に並ぶ美しい菓子に目を奪われていた。純白の粉糖に包まれた、繊細な花びらのような焼き菓子。(わあ……なんて綺麗。これならルファル様だけでなく、シャイン皇帝やエルシーさん、ハノ様達も喜んで下さるかもしれないわ)「リリシア。その菓子が気になるのか?」不意に背後から、ルファルの低く心地よい声が降ってきた。肩が小さく跳ねる。「あっ、いえ、その……」「こちらは『バハル』――海の花と呼ばれるこの街の名物でございまして、口の中で溶け切る前に3度その名を唱えると願いが叶い、幸せを呼ぶお菓子と言われておりますの。宜しければ、ご試食してみませんか?」と店主が声を掛けて来た。「リリシア、食べようよ。僕も食べたい」「……リゼル、お前が先に答えるな」ルファルはムッとし、不機嫌そうに眉根を寄せたが、リリシアがおずおずと彼を仰ぎ見ると、観念したように店主へ頷いた。「……用意してくれ」「かしこまりました」そうして店主から手渡された菓子をリゼルが真っ先に口へ放り込む。するとそのまま風のような速さで「バハル」と3度唱え終え、そのあまりの速さにリリシアは目を丸くする。「リゼル様、凄いです……」「……余裕。毒も入ってないし、リリシアも食べなよ」「では……ルファル様がお食べになられたら……」リリシアが遠慮がちに促すとルファルも
* * * リリシアは宿屋の玄関先で朝の柔らかな光を背負って佇むルファルの姿を見つけ、リリシアは心持ち急ぎ足で歩み寄った。 彼の端正な横顔。その美しさに、リリシアは一瞬、見惚れてしまいそうになる。 「……ルファル様、お待たせ致しました」 控えめに声をかけると、ルファルは一瞬だけ驚いたように目を見開いたが、すぐにいつもの氷のような無表情へと戻る。 本来なら、部屋で身支度を整え、軽い朝食を済ませてすぐに出発するはずであった。 しかし、ソフィラに「そのお姿で街へ行かれるおつもりですか?」と半ば強引に部屋へ連れ戻され、念入りな化粧と髪結い、そして慣れない華やかなドレスを纏わされた結果、ルファルを長く待たせることになってしまったのだ。 「……私も今しがた部屋を出たところだ。カイスとリゼルは先に外で待たせている。行くぞ」 ぶっきらぼうな、けれど拒絶ではない言葉に安堵し、リリシアはソフィラを連れてルファルの後に続いた。 そして外へ出ると、冷徹な空気を纏うカイスと、どこか虚ろな瞳をしたリゼルが待っていた。 ふとリゼルと目が合う。 (どうしましょう。廊下であんな生意気なことを……その上、お待たせしてしまったわ……) リゼルの気分を害したのではないかと、リリシアは俯きがちに声を絞り出す。 「あ、あの、リゼル様……」 「……リリシア」 不意にリゼルが近づき、リリシアの耳元で密やかに囁いた。 「……許婚の、フロリスの最期の言葉を思い出せたよ。君と同じことを言ってた。……ありがとう」 顔を上げると、そこにはいつもの無機質な表情ではなく、春の陽だまりのような穏やかな微笑みがあった。 リゼルはそのまま、ふわりとした足取りで歩き出す。 「ルファル隊長、リリシア、早く馬車まで行こうよ」 その豹変ぶりに、ルファルさえもが呆然と立ち尽くした。 「……一体どうしというのだ。これまでとは別人のようだが」 恐らく、フロリス(亡き許嫁)の最期の言葉を思い出せたことで、リゼルは前を向くことが出来たのだろう。 けれど、それを説明すれば、自分がリゼルに対して生意気な態度を取ったことまで明かさねばならなくなり、嫌われてしまいそうで。 リリシアはそれを恐れ、言葉を呑み込んだ。 「……まあいい。リリシア」 差し出された大きな掌。リリシアはその手に自分の手を重ねた。 そ
* * *朝、目を覚ますと、ルファルの腕に肩を包み込まれていた。腕の心地よい重みだけでなく、彼の手首に無意識のうちにリリシアの手が触れている。「……っ」あまりにも至近距離にあるその寝顔に、リリシアは息を呑み、硬直した。透き通るような白い肌。そして、涼やかな目元を縁取る長く密な睫毛が、頬に淡い影を落としている。冷酷無慈悲と噂されるルファルからは想像もつかない程、無防備で、ひどく美しい。(こんなに近くで……。わたしのような者が、このような贅沢を許されて良いのでしょうか)胸の奥が、切なく焦がれるような熱い痛みと共に、きゅっと締め付けられる。ルファル様を恋う気持ちが溢れ出しそうで、リリシアは震える唇をそっと動かした。「……ルファル、様」囁くような声に呼応するように、その睫毛が微かに揺れ、静かに瞼が開かれた。深い静謐を湛えた瞳が、真っ直ぐにリリシアを見つめる。「ようやく起きたか。リリシア、おはよう」「ルファル様、おはようございます……あの、ずっと前から起きて……いらしたのですか?」ずっと自分の見苦しい寝顔を間近で見られていたのかもしれない。そう思うと、恥ずかしさで顔が火照り、リリシアはあわあわと視線を泳がせた。その様子を見て、口元を僅かに綻ばせたルファルが体を起こす。「……着替える前に、私の髪を結ってくれないか。今日は少し、気分を変えたい」「か、かしこまりました」戸惑いつつも起き上がり、リリシアはルファルに従い、髪結いの準備を始めた。そして、ソファーに移ったルファルの後ろに立つ。秋めく今日、どのような髪型が彼に相応しいだろうか。最初は高い位置で一つまとめる「ポニーテール」を考えたが、それでは少し幼く、ルファルの高潔な雰囲気を損ねてしまうかもしれない。リリシアは丁寧にルファルの髪に櫛を入れ、その滑らかな髪を解いていく。
* * *秋の宵が月を包み込む頃。リリシアは宿屋の一室で独り、ルファルを待っていた。あの後。ルファルとリゼルと共に宿屋へ戻ったものの、リリシアの心は千々に乱れていた。あの激闘の後、昼食は部屋で静かに済ませ、夕食にはルファルとリゼルに連れられて宿屋の料理長が腕を振るった豪華な食卓を囲んだ。けれど、申し訳なさで胸が塞がれ、ただ俯くばかり。料理の味も、ふたりや別の席のソフィラやカイスがどのような眼差しを向けていたかさえ、記憶が朧げで思い出せない。――そんなわたしをルファル様が、部屋にお呼び出しになるなんて。緊張と心細さで、今にもどうにかなってしまいそうだ。ふと、窓辺の小さな机に目が留まる。そこには、無残に真っ二つに折れたルファルの剣と鞘が静かに寝かされていた。それを見た瞬間、胸がきゅっと締め付けられる。『月影! お前が怪異を呼び寄せなければ!』かつて母に浴びせられた言葉が呪いのように蘇る。あのイーグルの怪異が姿を現したのは自分が、“呪い月”だからに違いない。――わたしさえいなければ。ルファル様の大切な剣が折れることもなかったかもしれない、のに。自責の海に沈み込んでいると、その時だった。控えめなノックの音に続いて、静かに扉が開く。振り返ったリリシアの瞳に、うるわしい髪を流したルファルが映り込んだ。そのあまりの美しさと気高さに、リリシアは一瞬、息をすることさえ忘れてしまう。「……剣を、見ていたのか」リリシアの視線の先にある「喪失」に気づいたルファルが、静かに問いかける。「あ……」「そんな顔をするのはもうよせ。私は剣を一本失うより、お前を守れて良かったと思っているのだから」冷酷なはずのその声は、暖かく澄んでいた。リリシアがコクン、と小さく頷くと、ルファルはふっと口元を緩め、「よし」と大きな掌でリリシアの頭をぽんと優しく叩いた。「明日はハクヴィス邸へ帰る前に土産を買いに街へ立ち寄ろうと思う」「……はい」「だから今宵は……、私の隣で眠れ」その言葉の真意を悟った瞬間、リリシアの体中を熱い衝動が駆け巡った。「隣で眠る」――それは、朝が来るまで同じベッドで共に過ごすということを意味していた。ルファルは躊躇うことなくベッドへと歩みを進め、腰を下ろすと戸惑ったまま立ち尽くすリリシアを見て、微かに溜息を吐く。(あ……わたし、また
「リゼル、様……?」リリシアが驚きに声を零す。暴走する力に引きずられるように、リゼルの記憶の断片が、ふたりの脳裏に流れ込んできた。風の魔術を司る名家に生まれ、当然のように決められた許婚。病弱ではあったが、彼女の操る風は誰よりも強く、そして優しかった。『体なんて、気にしてないよ。君がいれば、それでいいんだ』静かな庭で、穏やかで幸せな家庭を築こうと約束したあの日。けれど、怪異は唐突に全てを奪った。中庭に散らばった、彼女が自分の為に摘もうとしてくれた名も無き花々。その絶望の光景を見たあの日から、自分の中の感情は、風と共に消え失せた。リゼルは静かに剣を抜き、もう片方の手で銃を構える。されど怪異は戦慄を覚えたのか、ふわりと浮き上がり、霧の中へ逃れようとした。「逃がさない。……死ぬまで追い詰めてあげる」リゼルが風を蹴り高く跳躍する。直後、銃弾を3発放ち、銃口から火花が爆ぜた。しかし怪異はそれを掌で受け止め跳ね返す。リゼルは、跳ね返された銃弾をすべて避けきれず、初弾こそ避けたものの残る2弾が頬と肩をかすめ、真紅が舞った。けれど、リゼルは空中で鮮やかに一回転し、新たに2発の銃弾を放ち、銃口から2条の火花を散らす。放たれた弾丸は正確に怪異の肩と脚を穿(うが)ち、その体を地上へと叩き落とした。しなやかに着地したリゼルと、そこに追いついたルファル。ふたりの視線が静かに交差した。「消え失せろ」重なる声と共に、無詠唱により月の魔術と風の魔術に包まれた2つの刃が怪異を両断する。邪悪な気配は浄化の光に飲み込まれ、一筋の輝きとなって消滅した。だが、それを合図とするかのように強風が吹き荒れる。ふたりが見上げた上空――――雲を割って姿を現したのは、ドラゴンに似た巨大なイーグルの怪異だった。「……イーグルの怪異」リゼルが感情の読めない瞳で淡々とその名を零す。「やはり、現れたか」
月を眺めた後、ルファルは執務に集中し全てを済ませ、やがて、カイスと共に宮殿を出る。 今宵はすっかり遅くなってしまったな。 ルファルがそんな思いを抱き、息を吐いた時だった。 後ろから怪異の気配を感じ、ルファルの顔付きが険しくなる。 確実に付いて来ているな。 ――気配からして、中庭の時の怪異か。 これから宮殿近くの馬留め場に行き、馬に騎乗し、帰宅しようと思っていたのだが、仕方あるまい。 「カイス、先に馬留め場に行っていろ」 「かしこまりました。兵達に馬を出してもらい、すぐに馬に乗れるよう準備しておきます」
* * *翌日の早朝、リリシアは、ぼんやりとベッドの上で目を開けた。夜を超せた……ルファルの花嫁候補になったのは夢ではなかった……。リリシアは夜明けの光を見つめながら思うと、肩にそっと誰かの手が触れ、ハッと意識が鮮明になる。「リリシア様、お目覚めですか?」まずい、ソフィラだ。扉を叩く音、全く聞こえなかった。いつの間に入って来たのだろう?リリシアは視線をソフィラに向ける。「は、はい……」リリシアはベッドから起き上
ルファルが夜空を見上げ、殺気を放つのを彼の胸の中で感じ、リリシアは息を呑む。自分には夜空は一切見えない。夜空に一体何が……。そんな疑問を抱いた時だった。草花がざわめき、一瞬の強風が過ぎ去り、リリシアとルファルの結った長髪が揺れる。この風、まさか…………。リリシアの首筋に冷や汗が流れる。あの儀式の日の記憶が蘇りそうになり、リリシアは縋(すが)るようにルファルの貴族服の胸元をきゅっと掴んだ。そうして、しばしの時が流
* * *――神魔会議前日の深夜のこと。リリシアは一人きりで廊下を歩いていた。月の光で眠れないことは幾度もあった。けれど……。(明日の会議のことが気になって眠れないのは初めてだわ…………)リリシアはふと涼しい風を感じ、中庭の入口を見ると、ルファルの姿を見かけた。以前もルファルが夜風に当たりに来たことがあったが、寝る前、書斎はまだ蠟燭が灯されていたこともあり、恐らく神魔会議で執務が滞る為、これまで必死にこなし、休憩を取りに来たのだろう。







